お母さんより上手く子供の写真を撮る写真家はいない。
などということを、どこかで誰かから聞いた。
iPhoneの新しい機種は、渋谷に大きく引き伸ばした子供の写真などを看板掲載している。
それほど、高繊細だというアピール。本当に、よく撮れていると思う。
つまりお母さんにiPhoneを持たせたら子供の撮影は最強。
しかし先の言葉は、せいぜい戦後くらいからのものだろう。
カメラが大衆化してからの話。
なおかつ、1980年代くらいまでは、普通のお母さんは中々子供の写真は撮れなかった。
ローライフレックスを持って子供の写真を撮るお母さんは川内倫子さんしか私は知らない。
いや、それなりにいると思うけど。
オートで撮れるフィルムカメラができて、写ルンですができて、スマートフォンができて、
そうしてるうちに、お母さんカメラマンは増え続けたわけである。今やお母さんはほとんどフォトグラファーだ。
お母さんの撮った子供の写真には敵わないというのは、
被写体を想う気持ちの差だということを示している。
被写体に向き合う感情が、写真を撮る技術を上回る、という意味だ。
言い換えるならば、写真を撮る技術は汎用化されたとも言える。
もはやカメラは万人共通の便利アイテムになり、そこに技量は存在しなくなってきている。
画素数が多いとか、階調が豊かとか、オートフォーカスが早いとか。
大雑把に言ってしまえば、カメラやカメラ機能をもつ機械全て、そこに大差ない。
まして画像の繊細さだけなら、友達のAIにいい感じで水面を飛んでる白鳥写真作って、とか頼んだら生成される時代だ。
写真が持つ画像としての価値はもはやカメラからは奪われてしまった。
それでは画質の指し示すところは何か。それは画素数や階調とは別の何かが必要だろう。
お母さんの子供に対する愛情に及ばずとも遠からぬ何かが、必要じゃないか。
感性が高いことだけでもいけない。美学や、哲学も文学も必要そうだ。科学や数学もいるかもしれない。
つまり、写真は描いて、書くものでなければならない。
美学の足りない写真も、哲学の足りない写真も、文学の足りない写真も、ダメなのだ。
ワンピースと麦わら帽子を身に纏った女の子が高原の木陰に佇んでいる。とか、そういうのはダメなのだ。
使い古された表現、クリシェとも言う。
森の中で水着と浮き輪をつけて佇んでいるならどうだ。これですらファッション業界では何度か使われていそうだし、逆にサムい。
写真表現は、見た目に綺麗な画像を作ることじゃないんだ。ということを今更ながら考えていた。